2004年分

2004年12月31日
雪が
積もり、一年が行こうとしています。夢の中で一年の出来事を追っていた。仕事は”私”を滅してなんとか対処してこれたが、私生活は私・・私の一年だった。920
2004年12月30日
朝からリーガで妹尾氏と会談
来期IT委員会の申し送り事項確認。 加えてITビジネスの話、なかなか興味深いものがある。独特なシステムをいかに実用化させるか・どうブレイクさせる仕組みを作るか・・ITビジネスはまだ始まったばかりなのかもしれない。
2004年12月29日
今日はブリンの様に
アンニュイな一日でした
香港の娘からのメール
高藤です。この度はご心配をかけまして、大変申し訳ありませんでした。12月27日23時無事に香港に帰国いたしましたので、ご連絡いたします。12月 22日にプーケットに到着し、タイに行きました。 22日から31日の旅行予定で、22日から25日まではカオラック、 26日から28日まではピピ島、29日から31日まではクラビに行く予定に していました。旅行に行く直前、なぜか急遽4泊5日のダイビングクルーズに (海上で船で寝泊り)変更しました。地震があった時間帯は丁度その日の1本目のダイビングをしている最中で 40メートルくらいまで潜っていました。うねりも流れもなく、全く穏やかなダイビグでまた、水面もまったくのべたなぎでした。 2本目ダイビングの準備をしている10時半ごろ、無線から情報が入ってきました。「水面は穏やかだけど、水中でものすごい流れが起こっていて不規則な渦が巻いている。アンダマン海界隈でダイビングをしているダイバーは注意せよ」と。しかし、水面は全くのべたなぎ。そして快晴だったので、そのときは全員がかなり楽観的で「だいじょーぶだよぉぉ」という反応でした。ところが、2本目ダイビングのブリーフィングをしようかというときに、「海岸線に近づくな。高波が発生している」との情報が入り、双眼鏡で陸地を見るとかなり高い波が見られ、潜水を見合わせることにしました。次々といろんな情報が入ってきたのはその後のことです。プーケットの空港が閉鎖になった、パトンビーチ海岸のリゾートが全滅、コータチャイにある2件のバンガローが全壊、跡形もなくなった、(丁度前日にコータチャイで潜っておりバンガローも見ていたので愕然)プーケットの海岸は、海岸線から1kmはなれたところまで浸水が進み10-20M級の高波が続いている、港に停泊していた船が2隻沈没、ダイバーが10名行方不明、沖合いに出ていた漁船が沈没、死者発生、スリランカとインドで死者が多発、カオラックのリゾートも全壊で私たちが出航した港もなくなった、などなど、、、情報は断片的で、更に恐怖をそそりました。そのうち、いろんな所からテキストメッセージが入ってきたりして、どうやらインドネシアのスマトラ島北部で地震が起こったらしく、それが被害を起こしているらしいと全体の様子がわかるようになってきました。 1度、波が高くなったときがありました。波と波の間が16メートルくらいの緩やかなゆれで、船がひっくり返ったり荷物が大揺れするほどの高波ではありませんでしたが、今思うと、あれが陸地を襲った波が跳ね返ってきたものだったのかもしれません。 結局ダイビングはキャンセル。その日の午後には陸に戻りプーケットに帰る予定だったのですが、全ての交通機関が閉鎖との情報、また街が壊滅 状態との情報だったため、また余震の可能性がゼロではないため、また船の中にはまだ十分な食料と水が残されていたため、船の中でもう一泊 することにしました。港の近くの湾内まで戻ったのですが、陸に近づくにつれ巨大なゴミが水面に浮いているのがみられ、よく見るとテレビや炊飯器や 靴、洋服、などの生活用品が大量の樹木に混じって流れてきていました。湾内にはいると、転覆した船や、陸に打ち上げられた船がいたるところに見られ悲惨さを物語っていました。また私たちの船が出港した桟橋は跡形もなくなっていました。賛否両論あったのですが、結局また沖に引き返して一晩過ごすことになりました。もしも同じことが起こるとしたら、海岸線に停泊しているよりも深さがあるところにいた方が安全だというキャプテンの判断です。 その日は全員が寝たような寝てないような状況で、ライフジャケットを片手に、またドライバッグの中にパスポート、食料、水、ライトなど最低限必要なものを詰め込んで交代で眠りにつきました。なるべく気を紛らわそうとゲームをしたり、バカ話をしたり、釣りに興じてみたり、、、だけどついつい考えてしまうことは、「一体この状況がいつまで続くのだろう」「余震はないだろうか」「沖合いだからといって本当に大丈夫か」「陸にはいつ帰れるのか」そんなことばかりでした。翌朝、港に戻り車に乗って空港に向かいました。車が手配できたこともラッキーだったと思います。テレビなどでごらんになっていると思いますが、建物、車、塀、何もかもがぐちゃぐちゃの状態で、「これはもしかしておうちだったの?」「これってもしかして塀?」と、想像しなければそこにもともと何があったのかわからないほどひどい地域もありました。少し内地に入ると、何もなかったような普通の町並みで、被害のあった場所となかった場所の境界線は明確にわかりました。その後空港までの道のり、被害地は通らずでした。朝8時に空港について早速帰りのフライトの変更手続きをしました。格安チケットなので通常なら変更はできないところなのですが、さすがに変更ができました。予約が取れたのは夜の8時。それまでの便は全て満席。空港は人だかり。泥まみれのバッグを持っている人や薄着にタオルをまとったままの人や、体中に切り傷がたくさんある人たちたくさんいたのですが、それでも空港に来れた人たちはラッキーなほうだったといえるでしょう。まさかこんな状況でスタンバイをしていても、空席が出る状況にはならないだろうと思いつつ、念のためスタンバイの手続きをしておきました。10時10分の便、正規の客がチェックインをした後、空席が確認されスタンバイの人たちの中から名前が呼ばれました。スタンバイで呼ばれた人は、約20-30人。 11時の便、スタンバイの中から名前が呼ばれたのは20-30名でした。 12時の便、また20-30名の名前が呼ばれ、そこで私たちも乗り込むことができました。もちろん、この空席には空港会社が確保していた席もあるとおもうし、 数を数え間違っていたことも考えられます。しかし状況的に、何らかの理由で空港にこられなかった人たちもいるのだと思うと、自分達がフライトを確保できたという喜びとは裏腹に、とても複雑な気持ちでした。飛行機の中、タイ語、英語、日本語、広東語のありとあらゆる新聞を入手し わからないながらも目を通しました。断片的だった情報が全てつながり、とても大きな被害を巻き起こしていること、またこれからも被害者の数は確実に増えることを思い驚愕し、自分がまさにその土地にいたこと、そして運良く何事もなく帰路につけたことにしみじみと感謝しました。 生死を分けたものはなんだったんでしょう?もし私たちがもともとのプランどおり、カオラックのビーチに滞在していたら、もし私たちが1日短いクルーズを予約していたら(3泊にするか、4泊にするか迷っていたのです)、もし地震が起こったときにたまたま陸地の近くに船が

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